「他人の不幸は蜜の味」という「ことわざ」があります。
「ざまあみろ」という感情です。
ドイツ語では「シャーデンフロイデ」と言います。
シャーデンフロイデは、他人の不幸を喜ぶ感情です。
恥ずかしく、嫌な気分になります。
人間は社会的な生き物なので、このような感情は受け入れられません。
コミュニティを崩壊させる危険があるからです。
社会に対し、害を与えるような感情を「恥ずかしい」と思うのですから、人間はよく進化できています。
この「恥ずかしい」という感情や嫌悪感は、どこから来ているのでしょうか?
私たちは、これが性格にあると信じています。
他人の不幸を喜ぶことに対し、「この性格を直したい」とか「自分は最低だ」と、思ってしまいます。
これは正しいのでしょうか?
また、この悪い感情を辞めることはできるのでしょうか?
目次
「ざまあみろ」の感情は本能から来ている
「ざまあみろ」の感情は、どこから来ているのでしょうか?
心理学の研究があります。
以前の研究では、4歳児でも「ざまあみろ」の感情を持つことが分かっています。[※1]
その後の研究では、2歳の子どもでさえ、「ざまあみろ」の感情を持つことが見つかっています。[※2]
そして2013年の研究では、わずか9ヶ月の子どもに、この感情の兆候が見つかりました。[※3]
こうなると、「ざまあみろ」の感情は、人間の本能だと疑う余地がありません。
今の科学では、環境や性格によって、どのように差が出るのかは不明です。
しかし、もとから備わっている感情だと分かります。
相手に心を読まれるのを嫌う
自分の心を読まれるのは、誰もが怖いはずです。
人間は社会的な生き物なので、当然です。
実は、人間以外の動物も同じです。
心を読まれてしまうと、狩りができません。
そして、捕食者から逃げることもできません。
この「相手に心を読まれる」という嫌悪感が、社会的な生き物では、「恥ずかしい」という感情に進化しました。
モラルがなければ、社会が成り立たないからです。
このモラルを守るために、「恥ずかしい」という感情があるのです。
ざまあみろが生まれる条件
「ざまあみろ」という感情は、どこから生まれるのでしょうか?
感情を引き起こす3つの条件があります。
- 重大でないこと
他人が大きな不幸に見舞われたときには起こりません。 - 自分で手を下さない
自分で相手をおとしいれるときは、起こりません。 - 友好的でない関係
相手との関係性が、友好的な場合には起こりません。
嫌な上司がコーヒーをこぼしたとき、内心で微笑むかもしれません。
この感情は、ささいなことで起こります。
また、自ら手を下したときも、この感情は起こりません。
間接的な状況で発生します。
ですから、復讐心とも違う感情です。
ざまあみろは快楽の信号
以前の記事で説明したように、人間は、他人の不幸を喜ぶようにできています。
「ざまあみろ」という感情は、「他人の不幸を喜ぶ」という脳の特性だったのです。
脳をスキャンすれば、快楽を感じていると分かります。[※]
「恥ずかしい」とは何か?
そこで、あらためて「恥ずかしいとは何か?」という疑問が起こります。
私たちは「ざまあみろ」を経験したとき、「恥」という感情はありません。
実際に「ざまあみろ」と思ったときは、脳が快楽を感じています。
他人に知られるとまずいので、「恥ずべき感情」というレッテルを貼っているだけです。
「ざまあみろ」の感情を辞めるのは難しい
前述のように、「ざまあみろ」の感情は、本能的です。
人間に限らず、脳のある動物は、危険を避け、快楽を探します。
「ざまあみろ」と思ってしまうこと自体、人間的なものです。
そうであれば、受け入れるしかありません。
共感する
「ざまあみろ」の感情を抑えるのは、難しいことです。
もし、できることがあるとすれば、相手と共感することです。
相手が自分と同じ仲間であれば、この感情は起こりません。
お互いが共感できるグループにいれば、安全です。
社交的と紙一重
「社交的になる」ということは、「他とは違うグループを作る」ということです。
グループを作ることで、他人を排除しています。
意地悪な言い方ですが、皮肉なことに事実です。
「社交的」という言葉には、このように理不尽な面があります。
「社交的でない人は、他人を悪く思っている」というのは、勘違いだったのです。
社交的でない人ほど、他人を排除するのが苦手です。
気にする必要はない
結局のところ、「ざまあみろ」という感情は、気にしなくても良いでしょう。
私たちは、この感情を誰もが持っていると、理解するだけです。
心理学者のように、人間の性質を理解したい人にとって、シャーデンフロイデは、あくまで研究対象です。
「ざまあみろ」の感情を持ったからといって、自分を責めたり、落ち込む必要は全くありません。